ジャムセッション

 ジャズには、レコーディングや正規の演奏とは別に、ジャムセッションというものがあります。これは、事前にアレンジメントなど詳しい打ち合わせなしに、即興的に個々のミュージシャンがアイデアを出して競い合うという趣向です。(いまは、ロックなどでもあり、若者の社会的な集まりなどにもジャムという言葉が使われるようです)

 アフター・アワーズといわれる本番が終わったあとのライブハウスやスタジオでミュージシャンの楽しみ、腕試しとしておこなわれていました。ときに楽しいくつろいだ演奏となり、ときに激しいバトルとなり、ときには実験的な新しいスタイルの誕生となりました。
 有名なのは、1941年「ミントンズ・プレイ・ハウス」での演奏後のジャムセッションです。チャーリー・クリスチャン(g)やディジー・ガレスピー(tp)、セロニアス・モンク(p)など、その後ビッグネームとなる若いミュージシャンが集まって夜な夜な競い合っていた演奏が、偶然にもプライベートな録音として残っています。これが、世に言うビ・バップの誕生です。それぞれが次代のジャズとは何かを模索していて、互いに切磋琢磨、研究して新たな音楽を見つけ出していく、そんな場だったのでしょうね。

 また、ジャムセッションはしばしば「他流試合」となります。いくつものコンボ(バンド)が出演した場合、それぞれのバンドからミュージシャンが出て初めての「バンド」となって演奏することもあれば、一つのバンドに外から1人のミュージシャンが飛び入りして演奏することもあります。ここに生まれる腕の競い合い、ウィットとユーモアの往還がスリルと興奮を生み出し、ジャムの醍醐味が味わえます。
 
 このジャムセッションアフター・アワーズでなく、コンサートホールに聴衆を集めて聴かせるビジネスにしたのがノーマン・グランツでした。このあたりの才覚、商魂はなかなかですね。ヴァーブやのちのパブロといったレーベルで大物同士を組ませるアルバムを山ほど作ったグランツらしい。
 
ATPは、スターを多く抱えていました。そこで問題になるのが「オレが、オレが」にならないの かという点です。日本に来たときこそいなかったものの、40年代のJATPには、レスター・ヤングコールマン・ホーキンスチャーリー・パーカーというジャズサックスの3大開祖がそろっていたのですから。
 しかし、達人ぞろいだからこそ、商業的にも耐えうるジャムができたのです。キーと曲さえ決めればあとはピアノあたりの進行役となって、各人が次々と技を披露しました。同じ楽器が何回も続くなんてヤボはしません。緩急もみんな心得ている。ソロの順番も決めていなくても最高のものを作り上げようという姿勢で決まってきます。そこは、ジャズミュージシャンの心意気といったところでしょう。あるジャズマンは、ジャムは「競争」でなく「協調」だといっています。
 
 お薦めの曲は、「コットン・テイル」。D・エリントが、ベン・ウェブスターのために書いた曲です。そのベンは、来日JATPのメンバーですから、ソロはまずベンから始まります。時間の関係で最後までは無理でしょうが、楽器から楽器へとソロが移る楽しい様子をお楽しみください。
 もし、パーカーが日本に来ていたら…そんなことも思うアルバムです。
(2011年4月26日放送)