たった一人がこじ開けた扉

先週は、50年前、最先端のジャズの上陸の衝撃の話でした。今週は、それを遡ること5年、今からちょうど55年前に単身、本場に乗り込んだ女性ジャズピアニストの話です。

穐吉敏子(以下トシコ)、1929年生まれ。81歳の今も現役バリバリの世界的音楽家です。
19561月(ですから、先週のA・ブレイキーの来日のちょうど5年前です)、26歳のトシコは海を渡ってアメリカのバークリー音楽院(現大学)に留学します。まだ100ドルしか持ち出せないような時代でした。
そこで音楽理論を学び、ジャズウィメンとしての活動を軌道にのせました。渡米前のトシコは18歳で大分から上京、進駐軍クラブなどで演奏を続け、渡辺貞夫なども加えてカルテットをつくっていました。
1953年、JATPオールスターズが来日したおり、たまたま、オスカー・ピーターソンの目にとまったトシコは、JATPを率いていたノーマン・グランツに紹介されて『アメイジング・トシコ・アキヨシ』(ノーグラン→ヴァーブ)という初のアルバムを出します。ここがアルバムの出発点です。

トシコは、1996年、岩波新書で自伝ともいうべき『ジャズと生きる』を著しています。これには、ずいぶん自意識の強い、強靭な精神の持ち主だったことが隠さず記されています。これでないと海の向こうで、日本人、女性という当時、差別を受ける立場で数々の猛者たちと対等に伍していくことはできなかったでしょうね。

昨年、NHKのBS放送でトシコ・バンドの上海公演の様子が放映されましたが、81歳にしてなお、「もっとうまくなりたい」「最も音の多いバド・パウエルともっとも音の少ないジョン・ルイスを尊敬している。両者のような演奏をしたい」とキラキラとした目で語っていたのが印象的でした。

作曲家、編曲家、指揮者と多彩な才能を見せるトシコですが、「自分はあくまでピアニストだ」と言っています。前者もすべてピアニストの視点から出発していると。

トシコは、70年代、2度目の夫となったサックス奏者のルー・タバキンとともに「トシコ・タバキン・ビッグ・バンド」を結成します。このバンドは次々と話題性のあるアルバムを放ちますが、初めて吹き込んだのが今回紹介する『孤軍』(1974年)です。
タイトルチューンの「孤軍」は日本の鼓(つづみ)とフルートを組み合わせてつくられたユニークな曲です。このアルバムは「売れない」「和洋折衷じゃないか」などと酷評も多かったようですが、ヒットしました。

ちょうどそのころ、フィリピンのジャングルでたった一人で「戦って」いて発見された旧日本軍の小野田少尉に深い印象を受けて作った曲です。しかし、このタイトルは、トシコその人の姿でもあったのです。
孤軍奮闘―。先の自伝でも「『孤軍』と名付けて、彼(小野田少尉)に捧げた。また、私自身もアメリカにおいて孤軍だ、とも思った」と書いています。
 
トシコのバンドのコンサートはいつも同じ曲で幕を開けます。「ロング・イエロー・ロード」、長く黄色い道。生まれ故郷の旧満州中国東北部)の黄色くかすんだ道をモチーフにして作ったと言われますが、これもまた、アメリカで成功するまでの、長く、黄色い(イエロー=日本人)、苦難の道が根底にあることは間違いありません。

先日、アメリカでメジャー・リーグが日本のプロ野球に先駆けて開幕しました。日本人選手の活躍が毎日伝えられます。いまでは当たり前の光景ですが、これもまた野茂秀雄という一人の選手がさまざまな国内の批判を受けながら「孤軍」となり、長く黄色い道を切り開いていったからにほかなりません。
トシコは、バークリーの日本人第2期生として、渡辺貞夫を呼び寄せます。ナベサダはいまや世界のナベサダとなりました。

トシコの渡米から55年。同じく一人の女性ジャズピアニストが快挙を遂げます。上原ひろみ。今年2月、音楽業界で最も栄誉ある賞だといわれるグラミー賞を受賞しました。今、アメリカのジャズ界も「イエロー」の実力を認めないわけにはいかなくなっています。ミュージシャン、コンサート、CDやDVDなどの媒体、すべて含めたジャズ市場は、本国よりも日本の方が今は上回っているのではないでしょうか。
上原ひろみは、たまたま来日していたチック・コリアの目に止まって世界に羽ばたきました。このあたりも因縁めいたものを感じずにいません。トシコは上原を祝福するとともに、新たなライバルとして見ているのではないかと想像しますね。

たった一人がこじ開けた扉、そして、その向うの長い道のり、極めた山頂、そんな深い感慨を覚えるアルバムです。
(2011年4月5日)