ジャズ界「黒船」級の衝撃

いよいよ新年度突入週となりました。そこで「ごごジャズ」も心機一転、原点回帰ということで、ポイントとなる作品をとりあげていくことにしましょう。
 
その第1回は、いまからちょうど50年前、日本に衝撃をもたらしたA・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ来日公演『ライヴ・イン・ジャパン 1961』です。半世紀前にジャズはどう響いたか…。

1961年1月1日、午後10時10分、一行は羽田空港に降り立ちました。ほとんど休む間もなく翌2日午後1時、いまはなき東京の「産経ホール」で3部構成のコンサート(マチネー。午後6時の部もあった)に臨みます。その実況録音盤です。ブレイキーのメンバー紹介などMCもたっぷり入っており、臨場感あふれるものになっています。
 
CDでいうと、1枚目が1部、2枚目が3部です。2部はボーカルのビル・ヘンダーソンが入って歌ったそうですが、契約の関係でアンイシューです。なんで男性ボーカルなんかはさんだのか、不思議です。
 
これは日本のジャズ界にとって「黒船」級の衝撃でした。戦後、1953年にルイ・アームストロングやJATPが来日して初めて本格的な「本場」のジャズにふれた日本人は大熱狂します。この時の様子は『JATP LIVE AT THE NICHIGEKI THEATER』という3枚組みのアルバムとして残っています しかし、聴いてみると、演奏はまだスイング時代の影響を受けていたいわば「過去のスタイル」です。
 
そこへ、モダンジャズの最先端、まさにピチピチの獲れたての新しいジャズがやってきたのです。興奮しないわけはありません。当時は、レコードも直輸入盤で給料の4分の1カ月分より高かった。1部のジャズ喫茶が持っているのみ。ミュージシャンもファンもみんなそこに集まって必死に耳を傾けていた時代のことです。BNなどはほとんど入って来ていませんでした。ブレイキーは、このことを知らなかったのかMCで盛んに「ブルー・ノート・レコーディング」といっています。BNでやった曲ですというメッセージでしょうが、観衆はよく理解できなかったでしょうね。『モーニン』も『アト・バードランド』もほとんど知られていなかったのですから。
 
ライナーノーツには、ウェイン・ショーターがモード奏法だったのに誰も気づかず、ピアニスト八木正夫が教えてもらったというエピソードが記されています。とりわけミュージシャンには衝撃だったでしょう。しかし、海の向こうでは、2年も前の59年にすでにモード・ジャズの集大成ともいうべきマイルズの『カインド・オブ・ブルー』が録音されていました。
本場の最先端のジャズを学びたいという渇きは、どのミュージシャンも同じでした。「読売新聞」連載の「時代の証言者」に、今月は渡辺貞夫が登場していますが、そのなかで渡辺は、65年にバークリー音楽院(現大学)の留学から帰国すると、ピアニストの菊地雅章が「米国で学んでジャズ理論を教えてください」と訪ねてきた話を書いています。これがプロ相手のジャズ教室のようになり、あっという間に50人にふくれあがったとのべています。
ミュージシャンの渇望が見え、よき時代のエネルギー、青年たちの進取の精神というものが感じられて、ちょっと感激する話です。
ブレイキー来日の61年は東京五輪まで3年、安保闘争も終わり、高度経済成長に突入する真っただ中でした。決して豊かではなかったけど息吹はあった。そんな時代でした。いま、戦後最大の国難。この気持ちを持ちつづけたい。

コンサートは正月ということもあって、ロビーで樽酒がふるまわれるという華やかな雰囲気でおこなわれたようです。ブレイキー一行も楽屋で「ホット・サキ(サケ)」「アサハイ(アサヒ)ビール」などと言ってよく飲んだということです。おもしろいのは、ライナーノーツにもあるように、ブレイキー御大の「ナイアガラ瀑布」と評される長いドラムソロの間、他のメンバーはみんな楽屋に消えて飲んでいたという話です。
 余談ですが、メンバーはこの夜、女優・水谷八重子宅に流れてパーティーを開いています。それは、娘の水谷良重(現・八重子)が当時、売れっ子ドラマーだった白木秀男と結婚していた関係です。良重とダンスを踊るブレイキーの写真などが残されています。ここでもエクストリーム・アイビーのスーツに身を固めたリー・モーガンは大いにもてたそうです。白木はその後、良重と別れ極貧のうちに孤独死で発見されるのですが、これもまた日本のジャズ史の一側面です。

曲は、ぜひ、最後の「ナイト・イン・チュニジア」を。これは以前、『バードランド』でも紹介しましたが、今回は質が違います(チュニジアの現状も大いに違うが)。ブレイキーのドラミングから始まり、テーマに至るまで3分ほどなので、我慢して聴いて下さい。最初に曲紹介してあとはテーマまで。ここではリー・モーガンがマラカスを、ショーターがクラベルで盛り上げています。スリリングなアプローチがなんとも言えません。

この来日は、日本に大きな衝撃を与えました。「朝日」「毎日」「読売」の3大紙が「ものすごい迫力」などというレビューを揃って書き。大江健三郎が批判的な批評をものし、それにジャズ評論家がもうぜんと抗議、石原慎太郎がジャズをテーマに小説を発表したという社会現象を起こしました。

これを機会に、次々とジャズミュージシャンが来日するようになりました。
1975年5月、トランペットをビル・ハードマンに据えたジャズ・メッセンジャーズのコンサートが三重会館で行われるなか、はからずも居眠りをしてしまったという体験を持つ私は、あまり大きなことはいえませんがね。(2011年3月29日放送)